115 【G16】中庭のペトリコール
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【独】 古賀臨
十歳の頃。
街中の警報がけたたましく鳴り響いた真夜中、
窓から飛び込んで来た其れは僕達を襲った。
人狼騒動。数ある言い伝えの中の、氷山の一角。
僕の部屋のドアを蹴破る勢いで、姉は怪物の眼前へ躍り出た。
生暖かいものが四方八方に飛び散って、頬を濡らした。
姉が顔を覆って蹲るのと同時、
割れた窓硝子の向こうから無数の公用車のサイレンが聴こえた。
叫び声を上げる間もなく。
脚元で呻く姉を抱き竦めたまま、
僕達は保護され、恐ろしい夜は明けていった。
【独】 古賀臨
姉は身体中に生涯癒えない傷を負い、視力を失った。
それ以上に酷いコンプレックスを抱えるようになって、
「うつくしい」と声を掛ける事は出来る筈もなかった。
艶やかな黒髪に櫛を通す意味合いも変わってしまった。
人々はあの事件を「天災」だと云う。
僕自身、何をすれば対抗出来るのかも解らない。
偶然選ばれたのが僕達だったと言うだけで、
いっそあの時二人で死んでしまえば良かったとさえ思う。
光を失った姉にかつての面影はなく、
祖父母も両親も代わる代わる姉を助けたものの。
この頃、心労が祟って祖母が亡くなった。
竜華堂から近しい人が一人去った。
【独】 古賀臨
姉とも家族とも深く触れ合う事がなくなり、
僕は高校受験に向け部屋に籠っていた。
世間はあの惨劇を薄らと忘れつつあり、
僕もまた、姉の傷付けられた顔の事が朧気になっていた。
仄暗い廊下で偶然鉢合わせた際、
思わず喉から甲高い呼気が洩れた。
珍しく部屋から出歩いていた姉も、その音に気付いた様だった。
事件から四年経っても、あの怪物の行方は音沙汰なく。
……四年経っても、姉の顔の傷はまるで癒えないままだ。
【独】 古賀臨
ドアを三度ノックする音。
息を飲んで数秒、どうぞと発声する。
入ってくる姉からは視線を外したまま、
机の上の問題集に向き合っている振りをした。
息を殺し、わざとシャープペンシルの芯をくり出して。
たった一言が言い出せず、台詞は掻き消される。
全盲の生活にすっかり慣れ切ってしまったのか、
壁や家具を手探りもせず、姉は此方に近寄って来る。
その生白く、擦り切れた、指紋のない指先が。
脈を辿る様に、正確に首筋へと触れた。
【独】 古賀臨
「ねえ」
湯上りの、微かに湿った躯に染み込んでいく体温。
深く、より一層深く。
こうして強く抱き竦められたのも何時ぶりか。
「私、もう辛抱しない事にしたの」
異常な位に心臓が高鳴っている。
耳元に張り付くような声色に何かが混ざる度、
破れそうな位に胸が軋む。
「だからもう、」
全て見透かされているような心の内と、
頭の隅が激しく点滅しながら白んでゆき。
生熟れた実が弾けた。
【独】 古賀臨
……叫びも、嘆きも。
今更何一つ意味を成さないと、解っている。
如何程の屈辱が、如何程の絶望が、あの人の心を蝕んだだろう。
その睛を点じたのは私だったかも知れない。
それでも彼女は今際の際、
私の時間と魂の一部を連れ去ることを選んだ。
【独】 古賀臨
あれから。
高校受験を迎えると共に、視力が緩やかに落ちていった。
姉の自尊心や世間体を気にして言えなかった言葉の数々が
永遠に失われた事が、深い深い傷痕になった。
丁度一年が経った頃、
父親は記入済みの離婚届一枚残して蒸発した。
立て続けに祖父も心臓病で逝ってしまった。
名前だけが遺された竜華堂の引き戸を開け、
埃っぽい古びた香りの中に身を委ねて気が付く。
あの柱時計はいつの間にか止まっていた。
【独】 古賀臨
きみの世界が知りたくて
あなたの面影を追い掛け、
積み重なった古文書に手を伸ばそうとも。
百二十年物のバイオリンに触れてみても。
古い木の香りを胸いっぱいに吸い込んでも。
星を詠めど、雲に唄えど、あなたを失った理由に行き着かない。
【独】 古賀臨
惰性の儘に生き続け
再び人狼が現れたと耳にした時、
私は生き永らえてはならないと感じた。
そうでなければ。
姉は一体、何の為に死なねばならなかったのか。
其の意味が潰えてしまうから。
憐れみは最早必要でない。
あなたが遺した呪いを抱いて。
涙を流せぬあなたの代わりに。
あまたの死を悼み、
折り重なる真実を見詰め、
そうして。
古賀臨
牛丸さんが真なら初手で強敵を捕まえてくれた恩恵に預かっているだけの立場で恐縮なのだが、何だかね。
もう少しだけ、絆されていたかった。
と言うのはあるのだよ。
通り雨をバスの待合所でやり過ごす様に、ね。
古賀臨
草刈さんの話し方はどう足掻いても聞き取るのに時間がかかる(装飾と形成にかける時間という意味で)筈なのに、内容の取捨選択が衝動的に見えると言うか。
毎度毎度着眼点も異なるので「たった今考えてきました！」が伝わって作為が微塵も感じられないというか。
初日からこうも疑えない人を他に知らないので、その……新美南吉を読む様な心地で見ている部分がある。
……伝わる？
古賀臨
手袋を買いに行ったのか猟銃が煙を上げたのかで分かれるけれど、本なんてものは解釈論の母体の様なものだ。
絵本だったらイメージが掴みやすかったかも知れないがね。
全く以て無害なものとして読んでいる。
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